「変換される歩み」(6)

† 昇華か卑賤か? 人間は、常に今より上を目指して生きる事、頑張ることを当然としている。世の中は進歩しているのだから、見合った成長と進歩を求められているからである。昇華(ショウカ)という言葉は余り使われないが、霊的分野、心理学では重要な意味を持っている。物事が一段上の状態に高められることで「霊的に引き上げられる」に相当する。 情熱や執念、熱心さが飛躍的に信仰、学問、芸術を昇華させる、と言う事である。私達クリスチャンは、神との関係が深まる、即ち神の愛に満ちて生きる事によって、世界が変わってくる。主イエスの見ておられた世界に近づけるのである。社会の中で、人が上を目指して頑張り、生きいくのとは違った見方になる。聖書やイエスについて学んで解ったことと共に、神の愛の偉大さに昇華されると、主イエスを「私の主。私の神。」ヨハネ20・28)と、新にされるのである。 卑賤(ヒセン)とは、身分や地位が低いことで、私達の主イエスは卑賤の下僕と言われる。私達は人間として霊的に成長するならば、主なる神の愛に昇華され霊的視野が開かれることで、その人は卑賤のイエスに等しくなるのである。神の人は、自分の立派さなどどこにもないと言うだろう。神の御心に生きる人の卑賤の特長なのである。 † 見せない私。 「私は私である」当然のことながら「我が輩は猫」ではない。しかし、私は見せている自分と、見せていない自分がいるのではないか?見られている自分が、見せていない自分であるならば本望といわなければならない。どの様な場面でも表裏(ヒヨウリ)一体である事が理想である。自己評価の高い、低いとかに関係なく「正直な人」として、ありのままである事に優位性を感じるのである。「見せる」ということは、別の何かの自分を、見せたくないのである。人間は常套的に見せていない自分を変換して「良く」見せているのである。これは霊的には成人になれない姿である。確かにクリスチャンの道徳的・倫理的品性は聖書に準じ、主なる神の聖さに準じている。それを保持しているように見せることはパリサイ的な律法主義である。真実に神の恵みに浴したい人は、ありのままの自分を現さなければ、主は通り過ぎて行かれる。問題のある自分を立派に変換し「ふり」をして生きる事は、とてつもない無駄な遠回りをしてしまう事だ。自分の全てを主に見せる事が真の変換である。

「変換される歩み」(5)

† 変換する力。 人間を変えるというレベルで感嘆するのものが聖書にはある。語るに語り尽くせないわけだが、これだと思う事は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」エペソ2・6)信仰という領域は、過去も現在も未来も、実際の「永遠」にあるということだ。私は過去の私ではなく、現在の私でもなく、将来の私ではなく、全てを合わせ持つ私であることを聖書は言っている。こんなことは初めて書くことだが、私が変換されている真実の世界なのである。信仰により、イエス・キリストにおいて、ともに私は天のところ座っている。私達の生活の基準はどこにあるか?と問われるならば、いかに答えるか?「キリストによって国籍である天国であり、天にある栄光のもろもろの衝動です」と言ったらどうだろう。そう考えると、私達は天の栄光と御力を、信仰によって現実の今に呼び求め、エリヤのように天と繋がる事は不思議ではなくなる。信仰においては葬られており。信仰においては主イエスと共に天の座に着いている。その霊的現実に生きられる事が最大の変換なのである。天の歓喜を地にもたらすことにもなる。 † デジタルパソコン牧師。 今から33年前(1988年)ある牧師さんが、私に自分の事を「私はデジタルパソコン牧師で、神の言葉のみです」と紹介したのであった。この先生から多くのパソコン応用について学んだ。今時は、ほとんどの牧師がデジタルパソコン牧師である。恐ろしい程の進化を遂げているのがデジタルの世界で、パソコンの性能は著しい。40年以上もパソコンに係わっているとよく解る。このように道具が善くなったら、よいものが創出されるはずである。アナログよりはデジタルというわけだ。しかし、人間の頭は機械化されてはまずい事になる。人間は関係によって生きるアナログ(物理量)的である。人間関係の現実は、心を伴った愛であり、誠実さである。世の中がAI(人工知能)やデジタル化が躍進しても、人間そのものは変換されない神の作品(エペ2・10)である。人間はデジタル化に大きく影響され、人間性を疎外される時代になるだろう。しかし、人間は「愛」を必要とするアナログである。教会の使命は、人の生きるのは「いのちのパン」神の愛であることを、世に高らかに示すことである。